1927年 |
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第1回P.O.W.杯(プリンス・オブ・ウェールズ杯)に41艇のインターナショナル14が集まる。
これが、公での一応のインターナショナル14クラスのスタート。
第1回P.O.W.杯の様子。
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1928年 |
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| 第2回P.O.W.杯で、イギリスの“奇才”ウーファ・フォックスが優勝。
フォックス自らの設計による自作艇「アベンジャー」は、「プレーニング」性能という奇抜な発想により、一世を風靡した。
以降、30年代、40年代と、20年以上に渡ってデザイナー ウーファ・フォックスの時代が続く
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1929年 |
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| フォックスが、「アベンジャー」の改良艇「ダーリング」で優勝。
インボード・ラダー、メインセールをマスト・ブームのグルーブへセットする、というのがこの艇の特徴であった。
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1931年 |
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第1回P.O.W.杯でフォックスと競い合った末、3位だったモーガン・ジルスが「キャサリン」で「スピネーカー」を駆使して優勝。有終の美を飾る。
初期のスピネーカを揚げる様子。 スピンポールはまだない。
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1932〜1933年 |
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| その後、12回もP.O.W.杯を手にする事になる名手スチュワート・モリスが、フォックス設計の「R.I.P」で2連勝を飾りデビュー。
この時すでに、「ブームバング」が儀装されていた。
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1934年 |
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| フォックス設計の「ライトニング」で、ジョン・ウィンターが優勝。
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1935〜1936年 |
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| 再びS.モーリスが2連勝。この時の艇が、名艇が「アラーム」であった。「浮力タンク」「排水装置」が装備されていた。
このデザインはアメリカに渡り、最初のモールデッド・プライウッド艇のモデルとなり、後にUSワンデザイン14フッターへと発展する。
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1936年 |
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3位のピーター・スコットが、「デイブレイク」で「ウッドのセンターボード」を使用。センターボードの概念を大きく変えた。(注・軽量センターボードという意味)
また、この大会で、カナダチームは「小型コンパス」を使用すると共に、ミーティングの席で、「トラピーズ・ハーネス」のアイデアを提案した。
Charls Curryによるトラピーズハーネスのイメージ図。
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1937年 |
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「アラーム」の改良艇「サンダー」でP.スコットが優勝し、この時初めて「トラピーズ」を披露した。しかもこの艇は、フットが3.3mもある大ジェノアをつけていた。
右は世界で初めてトラピーズに出た姿を捉えた写真。
また、左は初期のトラピーズハーネス。
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1939年 |
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| 「ホーク」で、C.ラッツェイが優勝。フォックス以外のデザインの優勝は、1931年のM.ジルス以来である。
この時のレースは大荒れで、出場33艇中、完走8艇というありさまであった。そこで、「ライフジャケット」着用が提起される。
またこの年、ジャック・ホルト設計のクリンカー張りの低価格14フッターが生まれる。
この後第二次世界大戦に入り、P.O.W.杯は一時中断される。
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1946年 |
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| P.O.W.杯再開。J.ホルトのクリンカー14フッターが、デッキを張り、セールを小さくしてマーリン・クラスとなる。この艇はそれまでのリベット工法に変わり、合成樹脂接着剤を使っていた。
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1947年 |
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| フォックス設計の「アラーム」「デブリン」の発展型「マーレット」でモーリス3度目の連勝。
この艇は、幅が狭く、スターンがフラットになったものだった。
スピネーカーは「ナイロン製」であり、その後、この素材は大きなスピンを可能にし、その普及に貢献する事になる。
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1948年 |
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| ワイチェとコポックが「ロビンフッド」というクリンカー14フッターを作る。これが後に、リグを小さくしてロケット・クラスとなり、J.ホルトのマーリン・クラスと合併して、“マーリン・ロケット”として発展する。
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1950年 |
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クラス協会が設立され、初代会長にS.モーリスが選ばれる。
オースチン・ファーラー設計の「ウィンドスプライト」の登場も忘れてはならない。この艇の出現で、ウーファ・フォックスの時代に終止符を打つことになる。
「ウィンドスプライト」は、セールメーカーとして有名な、ブルースバンクスによって50年、51年と2連勝を果たす。コールドモールド工法で作られた、ビーミィでストレートなキールラインを持つこの艇は、アイデアの宝庫でもあった。
センターボードのアップとダウン用の2本のロープ、そしてマスト内装のオートマチックなリーフ装置等の強風対策の装備は、当時画期的なものだった。この後、1963年までのP.O.W.杯の半分を、このファーラー・デザインが占める事になる。
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1953年 |
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史上空前の論議をかもし出した、O.ファーラーがデザインした「サンダーボルト」の登場である。
この艇は幅6.5フィートという大きなフレアーをつける事で、クルーのハイキング効果を得る事ができ、さらに、オープンデッキの泣き所であるスプレーの飛び込みを抑える事も出来るという、まさに画期的なものであった。
当時、14フッターには最小幅に関する規約しかなく、デザイナー達は最大幅を考慮する必要がなかったのである。
結局、「サンダーボルト」(の不自然なフレアー)は、ディンギー・コミッティーで問題提示され、1955年、IYRUは、最大幅を5.6フィートに設定、と同時にフレアーが極度に大きい線型防止のためのルールを作った。
しかし、この艇はその後、ジョン・ウェステルの手により“505クラス”として生き返る事となる。
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1954年 |
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バミューダのS.トリミンガム組が、「フェアリーマリー・マークT」で、初の外来チーム優勝をとげる。
この年、トランサムの排水口と「セルフベーラー」が認められる。
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1955年 |
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ヨット界にとって、大きな転換期を迎える事となる、「ポリエステル・セールクロス」が登場する。
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1956年 |
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A.ファーラーは、S.モーリスのために「ウィンドスプライト」の発展型「ボレロ」を設計。
この艇の上り角度はすばらしく、57年、60年にも優勝。
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1957年 |
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P.O.W.杯に、「プラスチック・ジブ」が登場する。
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1959年 |
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プロクターの「メタルマスト」が登場する。
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1960年 |
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「プロクター・マークX」がデビュー。
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1961〜62年 |
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またもや、S.モーリスが連勝。
艇として注目されたのは、バウ部にチャインをもつ「エティ」(G.ベンマン設計)と、イギリス初のFRP14フッター「ミステール」(A.ファーラー設計)であった。
この頃から、デザインの主流は、ファーラーからプロクター、そしてカービィへと移っていく。カービィは、後に、全世界で数万艇の普及し、オリンピック艇種でもある“レーザー”のデザイナーとして名を馳せる事となる。
プロクターのメタルマストと、センターメイン・システムが普及するのもこの頃
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1963年 |
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| 合板製の低価格14フッター開発に力が注がれ、ニュージーランドのジョン・ウェリー設計艇「シディ」がP.O.W.杯で4位に入る健闘をみせる。ハードチャイン14フッターの登場である。
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1964年 |
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ファーラー設計の「ボレロ」のハルを流用した「ソルート」が優勝。乗り手は、アメリカの名手、スチュアート・ウォーカー。彼は、アメリカの14フッターの原動力である。
2位に入った新進、ボブ・カーソン設計の「ソンブレロ」は、14フッター史上に残る名艇である。
ジブ・ファーラーが普及し、カニンガム・ホールも一般化した。
14フッター協会長に、日本の14フッター普及に力を注いでくれている、J.パドニー氏が就任する。
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1965年 |
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S.モーリスが12回目の優勝を飾る。実に、彼が57歳の時である。
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1966年 |
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P.O.W.杯に、アメリカのS.ウォーカーが、「ベンディング・マスト」を使った「ダーリン」を持ち込んだ。
この艇は、後に日本の猪苗代湖に浮かぶ事になる。
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1967年 |
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この年のP.O.W.杯には、多くの外来艇を迎えた。優勝は「カービィーV」に乗る、カナダのイアン・ブルース。
設計者カービィーと乗り手イアン・ブルースのコンビは、ディンギーに新しい波をもたらした“レーザー”を共同開発する事となる。
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1968年 |
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再び前年と同じ艇で、イアン・ブルースが優勝。
この年、スピンポールの長さがJ+25%に認められる
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1969年 |
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ウォルフ兄弟が、念願のP.O.W.杯をとる。実に、1936年の初挑戦から数えて、34年目にして得た栄冠であった。艇は、ソーター&カーソン設計の「ボソムフライ」。
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1970年 |
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J.パドニーが、カービィーの新艇「カービィーX」を持ち込み、圧倒的な速さで優勝。
またこの年、過去12回優勝のベテラン、S.モーリスが、多くのメンバー達に惜しまれながら引退した。
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1974年 |
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日本で国際14一号艇が進水。
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1984年 |
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「ダブル・トラピーズ」が公式ルールで認められる。
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1987年 |
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福島県猪苗代湖において、アジア初の国際14フッター級世界選手権大会、並びにP.O.W.杯が開催される。
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